認証企業事例紹介

「安定供給」「雇用継続」「地域社会への貢献」の
企業文化を体現するBCP・BCMニッポン高度紙工業株式会社(高知県高知市)

1941年創業のニッポン高度紙工業(株)(本社・高知県高知市)は、家電製品から自動車・産業用機器まで、エレクトロニクス機器にとって不可欠な存在となっているアルミ電解コンデンサ用セパレータ(絶縁紙)において、国内95%、世界60%のシェアを占めるトップメーカーだ。オンリーワン企業としてグローバルな安定供給責任を果たすべく、2011年に鳥取県米子市に代替生産拠点を構えるなどいち早くBCP・BCMの構築に取り組んでいる。
日本政策投資銀行(DBJ)は同社に対し、2011年に「DBJ防災格付」融資(2011年に「DBJ BCM格付融資」に名称変更)を、2014年に「DBJ BCM格付」に基づく融資を実施した。
製品の安定供給などに対する高い意識のもと、BCP・BCMに積極的に取り組んできた同社代表取締役社長の山岡俊則氏に聞いた。

1000年に及ぶ土佐和紙の伝統を引き継ぐ

まず初めに、貴社の歴史・事業についてお聞かせいただけますか。

高知県には1000年近い土佐和紙の伝統があり、当社がこの地で事業を営むようになったのも土佐和紙が起源になっています。平安時代は朝廷への献上品、江戸時代からは京花紙(きょうはながみ)、今は文化財の修復や書道用として使われていますが、ちょうど太平洋戦争の突入当時はタイプライター用原紙としてアメリカに輸出されていました。
ところが、日米の開戦によって輸出できなくなり新たな用途開発を迫られました。そこで、当時の高知工業学校の先生が水に濡れても破れにくい紙の研究を進め、そのアイデアを事業化して1941年に誕生したのが当社です。普通の紙とは違う耐水性に優れた高度な紙ということで「高度紙」と名付けられ、主に薬の煎じ袋として販売を開始しました。ですから、いわゆるオーナー会社ではなく、工業学校の先生が特許を出し、紙業関係者などからの出資を得て、それを事業化する経営者がいてという、今でいう産学連携の独特な歴史を持っている会社だと思います。
 その後、1943年に「アルミ電解コンデンサ用セパレータ」の用途を開発しました。当時、アルミ電解コンデンサのセパレータには木綿を使っていたのですが、戦争でその木綿が入らなくなったので、濡れても破れにくい当社の紙を使ってコンデンサができないかということで「高度紙」を見つけていただいたのです。
 戦後は、日本でもエレクトロニクスが発展するだろうと考え、そちらに軸足を切って、アルミ電解コンデンサ用セパレータの専業メーカーとして成長してきました。途中、1961年には高密度の紙と低密度の紙を合わせて一枚に漉いた二重紙の製造に成功し、世界市場へ進出しました。

アルミ電解コンデンサ用セパレータ

エレクトロニクス製品に内蔵されるアルミ電解コンデンサ

製品応用例(電解コンデンサ)

*アルミ電解コンデンサとは、エレクトロニクス製品の重要な部品のひとつであり、電気を利用する機器には必ずと言っていいほど使用されています。私たちの身の回りのものでは、テレビやインバーターエアコン、冷蔵庫などをはじめ、パソコンや自動車にいたるまでさまざまな製品に内蔵されています。

ものづくり企業の供給責任

貴社は、東日本大震災以前よりBCP策定に着手されていらっしゃいますが、代替生産拠点設置を決断されたきっかけや背景とは、どのようなものだったのでしょうか。

当社のアルミ電解コンデンサ用セパレータのシェアは、当初より非常に高かったものですから、「コストよりも安定供給」という考え方が社内に定着していて、ここが他社との大きな違いだろうと思っています。
たとえば、原材料は途上国から輸入しているのですが、途上国の場合は政情不安や自然災害など、様々な面でリスクが高いことから、原材料も必ず複数ルートから購買をするようにしています。そして、生産も複数の場所でできるようにしておく。そういう形で、コストよりも安定供給体制の構築を追求することが会社の文化となっているわけです。
事業所を分散して同じ製品がいろいろな場所で作れるということは、お客さまに対して安心をご提供することになりますし、逆に当社1社へのご発注でも心配がないことを証明するために、いかに安定供給体制の構築を実現するかがずっと当社経営の主要な課題だったとも言えます。そうした事情が、いち早いBCPの導入につながったのだと思います。

米子工場外観

もともと、そういう発想、文化がおありだったので、BCPを意識する・しないは別として、製品の安定供給のための対策に全力で取り組んでこられたということですね。

はい。具体的には米子市での代替拠点設置以前の、1992年に高知県東部の安芸市に、2004年には県中東部の南国市に工場を分散設置しました。これにより、お客さまにも安心していただいたのですが、1995年に阪神・淡路大震災が、2004年には新潟県中越地震が発生。これを受けて、同一被災の起きにくい県外にも工場を構えておくことが、さらにお客さまに安心をもたらすことになるのではと考え、2010年に日本海側の鳥取県米子市に新工場を建設することを決断したのです。
日本はどの地域でも地震は必ず起こり得るので、新工場の適地の条件は同時被災が起きない地域ということ。加えて、水が豊富であること。この経営資源は当社の事業に非常に重要な要素です。さらに、高知県からあまり遠くない所ということで、幾つかの候補の中から最終的に米子市に決めました。
その翌年、東日本大震災が発生しましたが、当時、新工場は建設中で、稼働したのは2012年の10月です。東日本大震災が起きる前、地元からは「高知県から出ていってしまうのか」といったことも言われたのですが、震災後は皆さんに理解していただけるようになり、高知県全体でBCPへの取り組みが広がってきているように思います。

貴社の製品供給責任に対する考え方と行動が、お客さまからも社会からも評価されたというわけですね。

そうですね。製品の安定供給体制の構築について、単なる計画で終わるのでなく、実際に実行しているという点を高くご評価いただき、当社への1社購買に対するお客様のご不安は非常に少なくなりました。
ちなみに、他のBCP対応としては、2001年に建屋設備の耐震診断実施、2005年に緊急地震速報や安否確認システムの導入、衛星電話・非常用備蓄品の配備、耐震補強の実施などがあります。こうした取り組みを経て、2010年にBCP策定のプロジェクトをスタートさせました。BCP・BCMの構築には相応のコストはかかりますが、安心には代えられないと改めて思っています。

「安全・健康はすべてに優先する」

BCMの中では、従業員の防災訓練のみならず周辺地域の方々との避難訓練も実施されているほか、安全衛生活動にも注力されておられるとお聞きしています。

当社は「安全・健康はすべてに優先する」という経営方針を掲げており、10年ほど前からは安全管理課という専担組織を設置することによって、安全と健康は非常に大切であるという文化のさらなる定着を図ってきました。これはBCMを進める上でも大きな前進につながっていると思っています。
具体的には、当社の安全衛生年間計画にBCMに関する教育・訓練等を盛り込み、計画的に実施・検証しています。また、BCM推進会議などを通じて新たに抽出されたリスクへの対応や製品在庫の確保など、優先的に取り組むべき課題を明確にし、社内のコンセンサスを得ながら進めています。これも社内の文化として定着してきている事例かと思います。
当社にとっては、地域も重要なステークホルダーです。地域社会の一員として、例えば2012年に高知市と協定を結び、津波や洪水などの災害時には本社工場の屋上を、社員含め地域住民1250人の避難場所として開放することを決めています。地域住民の方には年1回、すぐ隣には小学校もあるので、児童たちには年2回の避難訓練を実施して、万一のときは「ニッポン高度紙へ行けば安心だ」「地域にニッポン高度紙があって良かった」と思っていただけるようにしたいと思っています。

当行では、企業の危機管理に携わる実務担当者の交流会として「BCM格付クラブ」を毎年開催しており、2018年度は貴社のBCP・BCMへの取り組みについてご講演をお願いいたしました。参加者の皆さん一様に、貴社の優れたBCP・BCMへの取り組みに感銘を受けられていたと思います。
また、貴社は2019年5月、DBJ健康経営格付についても「従業員の健康配慮への取り組みが特に優れている」という最高ランクの格付を取得するとともに、格付評価が傑出して高いモデル企業のみが該当する特別表彰を受賞されました。地域の企業でそこまで進んでいらっしゃる事例はあまりなく、特に東京以外の企業からは貴社のお取り組みが非常に参考になるということで、ぜひまたお話を聞きたいという話もいただいている状況ですので、引き続き、貴社の防災・健康経営へのお取り組みをご紹介いただいて、日本全国での底上げにつなげていただけると非常に有り難いと思っています。企業として安定した供給を果たすこと、従業員の雇用継続、そして地域社会への貢献に資する様々なお取り組みをお伺いする事が出来ました。本日は有り難うございました。

(聞き手:取締役常務執行役員 山根 英一郎)
※役職等は取材当時(2020年1月)のものです。